「少年が大人の男性になるためのイニシエーション」と関連して、現代社会に存在する「傑出した人」とは、「一度は『死んだ』ことがある人である」という主張を取り上げました。「一度は『死んだ』」ということが、明確な目的を持った生き方をするための条件となったと考えられます。同様のこととして、希死念慮とは「消えたい」と考え感じているようで、実は「生きていたい」と考え感じている、と考えられました。これらの2つの場合と、「少年が大人の男性になるためのイニシエーション」でなされることの共通要素として、「死を感じることは生きるを感じること」が存在すると捉えられます。
- 傑出した人々が存在する - Biddulph "Manhood - A Guidebook for men"から
- 傑出した人は一度は「死んだ」ことがある人である
- 「消えたい」という思考は「生きるべき」へ行き着くための背理法?
- 「自分は何のために生きるのか」を頭と身体で知ること
- 死を感じることは生きるを感じること
傑出した人々が存在する - Biddulph "Manhood - A Guidebook for men"から
以下の書籍から引用をします。
Manhood誰もが知っていることから話を始めましょう。世の中には傑出した人々が存在しています。世界にも、あらゆる組織の中にも、あらゆる活動する人々の中にも、近所にも、あなたの一生の中でも。男性、女性を問わず、類いまれな人間性と資質を持つ傑出した人々が存在しています。
このような傑出した人々は、偶然にそうなったのでしょうか?生まれた時から傑出していたのでしょうか?これまでの人生にはずっと問題はなく、ずっと成功し続けていたのでしょうか。そうではありません。それどころか、たいていは、その正反対です。このような人々は苦しみの中を通り抜けて現在のようになったのです。そのような人々は、全てを失うような出来事を経験しています。しかし、それによって大きな変容を迎えているのです。
リチャード・ロアはこのように言っています。
「私が出会った、自分の人生よりも大きな目的を持っている人々は・・・必ず共通する特徴を持っています。その誰もが一度は『死んだ』ことがある、ということです。人生のどこかの時点で全てを失う崖っぷちに立たされ、その喪失体験(まさに「死にそうになる」ほどの)が、その人々を自分の人生よりも大きな目的に向かわせるのです。
ここまで145~146ページより。訳は投稿者による。
傑出した人は一度は「死んだ」ことがある人である
上記の引用で特に注目をしたいのは、リチャード・ロア*1の言葉として紹介されている部分の「傑出した人は一度は『死んだ』ことがある人である」という箇所です。
今回に引用をした箇所では、「少年が大人の男性になるためのイニシエーション」に直接に触れているわけではありません。そのため、これらの「傑出した人」は、現代社会に生きる人々を指しています。
「死にかける経験をした。それから、自分が本当に生きるべき在り方を見つけた」という人の例について、聞いたことがある方も多いと思います。私としても、「プロフェッショナル 仕事の流儀」のような、ビジネスパーソンが半生を語るテレビ番組などで、このようなストーリーは良く聞かれると感じています。
本ブログで以前に取り上げた翻訳者の越前敏弥さんも、クモ膜下出血によって「死にかける経験」をした後、(翻訳者養成機関での学習を経て)翻訳者となりました。
「消えたい」という思考は「生きるべき」へ行き着くための背理法?
関連して、ここで希死念慮について考えてみたいです。私は、希死念慮とは「消えたい」という願望を抱く思考、と捉えています。自分の人生を終わらせることを、いつ、どこで、どのように実行するか、まで積極的に考える段階よりは「程度が弱い」状態だ、と思っています。
そのような希死念慮を抱く人が持つ「消えたい」という思考には、根底には、「『生きるべき』という結論を得たい」という願いが感じられます。どれほど「自分は消えてしまった方が良いのではないか」と考えたとしても、決して「実際にそうなるべきだ」という結論に達しないとしたら、それは、「自分は生きるべきだ」と確信をできる根拠となります。どれほど「自分は、この世に存在していても、存在していなくても何も変わらない」「自分がいなくなったって、誰も悲しまないし、誰も困らない」ということを考え続けたとしても、「絶対にそうだ」という思考を持ち続けられないとしたら、それは、「自分は生きるべきだ」と強く信じられる理由となります。または、「自分が生きるべき理由が何か存在するのではないか」と探し続けたり、「自分に生きていてほしいと願っている人が誰かいるのではないか」を思いめぐらせ続けて、心の奥底から信じ切れる「何か」「誰か」を見つけたい、ということかもしれません。
このように考えると、希死念慮とは、「『生きるべき』を肯定するための強力で確実な理由を見つけるために、『生きるべき』の否定を徹底的にすることへと心と身体が向いている状態」とも捉えられます。
言い換えれば、「消えたい」という思考は「生きるべき」へ行き着くための背理法かもしれない、ということです。背理法(または帰謬法)とは、「ある命題を肯定したい時に、初めにその肯定が成立しない(否定される)と仮定をして、そのように考える途中で矛盾または不都合が生じることにより、その命題の肯定が成立すると結論付ける論理的推論の手法」です。あることを肯定をする結論を得るために、初めは、それを否定する方向へと論理をスタートさせる、というわけです。しかし、それが途中で矛盾したり不都合が生じて、言わば「行き止まり」に行き着くことで、肯定する方向が正しいのだと結論を得られる、ということになります。
箇条書きにすると、以下となります。
- 「生きるべき」という結論を導きたい
- 求める結論の否定となる「消えるべきである」が正しいと仮定する
- そのように考えると、その過程で矛盾または不都合が生じる
- そのため、「消えるべきである」は否定される
- よって、「生きるべき」という結論が得られる
これはまさに、希死念慮を抱いたことがある人の思考そのものに見えます。直接に言葉として現れる思考は「消えるべきである」「消えたい」です。しかし、心の底では「生きるべき」という確かな理由を見つけたい、という切実な願いが存在しています。このような状況では、「こういう理由がある。だから自分は消えるべきなんだ」という、根拠と結論の関係性の組み合わせをいくつもいくつも考えることになります。そして、どれだけ「自分が消えるべき理由」を考え尽くしても、心と身体でそれを肯定し続けられない感じたら、「自分は消えるべき」という仮説は棄却できます。つまり、「『自分は消えるべき』という考えは正しいとは言えない」ということになり、「自分は生きるべき」を信じて良い、と言えることになります。
「希死念慮を抱く人は、本当は死にたいとは思っていません。生きていたい、と考えています。ただ『今までと同じような生き方を続けたくはない』『自分の生き方を根本的に変えたい』と思っている状態です」と聞いたことがあります。この考え方からしても、希死念慮を持つ状態の人は、「死を考えている」というより、「(死を考えることで)生きるを考えている」と感じられます。
このような人は、前述の引用にて説明されている「傑出した人は一度は『死んだ』ことがある人である」と語られるような人と、ほとんど同じと考えられます。つまり、「自分は消えるべきである」という思考を徹底的に繰り返した後に、「『自分は消えるべきである』という絶対的な根拠は見つからない。それならば、自分は生きているべきだ」という心と身体からの強い確信を得た人は、「一度は『死んだ』ことがある人」であり、その経験により「傑出した人」となる、ということです。
「自分は何のために生きるのか」を頭と身体で知ること
「希死念慮を持つ」と「魂の長く暗い夜」はほぼ同じ
現代社会では、「希死念慮を持つ」ということそれ自体が「人生における失敗」と捉えられていると私は感じます。そもそも希死念慮(そして自殺願望も)を持つこと自体、起こらない方が良いことであり、それを経験せずに一生を過ごせるのが良い人生だ、という考えが標準のように思えます。そのため、希死念慮を持っている人は、その時点で、不幸または不運に見舞われた人、ということになるのでしょう。そうなると、なるべく早くその状態から抜け出した方が良い、という発想が善とされるのは必然です。
もちろん、ここでは少し違った観点から「希死念慮を持つ」を捉えます。ここまで書いてきたことから、「希死念慮を持つ」とは、「何のために生きるのかを心と身体で強く確信するためのプロセス」「生き方を根本的に変えるためのプロセス」と捉えます。その意味では、「希死念慮を持つ」ことは僥倖でもあります。その長く暗いトンネルを抜ける時には、生きる目的を強く確信して、生き方を根本的に変えた自分として歩むことができるのですから。
私が理解している範囲では、このように「希死念慮を持つ」期間は、ユングの言う「魂の長く暗い夜」(Long dark night of the soulまたはNigredo)と同様です。この期間では、これまでに光を当てていなかったシャドー(影)の部分に気付くことが必要とされます。潜在意識が、シャドーに目を向けるように強く求めます。そして、シャドーとは、悪い部分や無くすべき部分では決してなく、紛れもなく自分自身を構成する要素です。単に、それまでにあまり意識をしてこなかったり、あまり見ないでいた部分である、というだけです。ネガティブな(とされる)感情を起こすことによって、潜在意識がシャドーに目を向けるように求めます。その感情は、喪失感であったり、悲しみであったり、後悔であったり、怒りであったりします。
そのような感情は、全体性(ホールネス。wholeness)のある自分になるための重要な道標となります。この期間に、一見するとネガティブな感情が起こることは、実は悪いことではありません。それらの感情は、「大事なことに気付いてほしい。全体性のある自分になるために必要なことだから」と強く語りかけています。その時には苦難を抱えることになります。しかし、それは、成長するため必要なプロセスです。そして、それらの感情に導かれてシャドーに目を向け、シャドーを自分の中の要素として受け入れることができたら、全体性を持った自分へと変容します。その過程でシャドーを自分の中に位置づけることが統合(インテグレーション。integration)です。
「どのように生きるべきか」を知るための慣習
ここまでに書いている「傑出した人は一度は『死んだ』ことがある人である」ということは、もちろん、「少年が大人の男性になるためのイニシエーション」と多くの共通点があります。
以下、男性およびマスキュリニティの分野から離れて、榎本の以下の書籍から引用をします。
本当の自分を生きる - 春秋社 ―考える愉しさを、いつまでもアメリカの先住民の中には、「ビジョン・クエスト」と呼ばれる風習を持つ部族があります。これは、子どもが大人になるにあたって、一人で誰もいない自然の奥深くに分け入り、そこで自分が何のために生まれ、どのように周りの人たちや世界に貢献し得るのかというビジョンをつかむまで断食・断眠を続けるという過酷な通過儀礼です。ここで言うビジョンとは、人生の目的とほぼ同義であり、アメリカ先住民の世界では、それを思い出すことが一人前の大人として認めてもらうための条件となっているわけです。
154ページより。
ここで重要なのは、「自分は何のために生きるのか」を頭と身体で知ることです。「死を感じること」は、そのための手段です。このような慣習は、飽くまでも「生きること」のためになされています。榎本の書籍のタイトルを借りるならば、「本当の自分を生きる」ための手段です。本心から信じられる生き方をするために、頭と身体の両方で一致した結論を得ることが必要です。そのために、「生きること」について必然的に強く感じる状況を経験しなければならない。それが、「死を感じること」です。これは、希死念慮を持っている人が「消えたい」と強く感じているように思えて、実は「生きたい」と強く感じている、という状況とも一致します。
このように考えると、ネイティブアメリカンの慣習は、若い人が「傑出した人」として生きるように促す仕組みであったと言えます。そのような「傑出した人」こそが、「本当の大人」だとされていた(されている)のでしょう。私たちの生きる現代社会は、ネイティブアメリカンの社会とは大きく異なっています。そして、どちらがより良いのか、ということは簡単には判断できないことです。その上で、このように「傑出した人」が社会に多く存在するような仕組みを持っているネイティブアメリカンの共同体の在り方から、現代社会への何らかのヒントを私は得たいです。
死を感じることは生きるを感じること
以前、クローズドな場で死について考えるイベントを開催した時に、担当された方が「死を考えることは生きるを考えること」と話していました。その言葉に倣い、ここでは「死を感じることは生きるを感じること」と表現したいです。
「傑出した人」の「一度は『死んだ』ことがある」という経験も、希死念慮を持つことも、ネイティブアメリカンのビジョン・クエストも、どれも、「死を感じる」ことである点は共通しています。そしてそれは、結果的には「生きるを感じること」となります。意図しない偶然のものであっても、慣習として実施されるものであっても、確かな「死を感じる」を経験したことがなければ、確かな「生きるを感じること」も手に入れられないことになります。
繰り返しになりますが、私が目的として据えていることは、「生きるを感じること」です。そのための手段として「死を感じること」があります。私が最近に「死を感じること」を題材として選択して記事を書いているということは、私は「生きるを感じること」を確かに目を向けている、ということです。実際に、昨年の11月にメンズウィークエンドに参加した時、私は初日に「こんな一生であったら、これ以上は続いていても意味は無いのではないか、と感じました」と話していました。当時の私は、確かに希死念慮を抱いていました。そして、私は(「死を感じること」を通じて)「生きるを感じること」を経験していました。
「死を感じること」は、一生という期間の中では、必ずしも悪いことではありません。それにより「生きるを感じること」ができるわけですし、その後、結果的に「傑出した人」となる可能性もあるからです。その渦中では、そのように希望を持つことは非常に困難です。または、不可能です。しかし、もし思考をする隙間が訪れたら、「この困難を乗り越えたら、より良い自分になれるかもしれない」と考えてみることは、現状を少し落ち着いて見られるかもしれません。苦しみとは、決して意味もなく起こるものではないです。私はそう信じます。
お読み下さり、どうもありがとうございました。

