くっすのWeb文章

男性における精神的な成熟、マスキュリニティなど

「男らしさとは優しさだ」も有り得るか ― 男らしさの様々な在り方について、および、特定の男らしさはもっと求めた方が良い可能性について

私は、「男らしさから降りよう」という呼びかけがあまり好きではありません。
それは、おそらく、「そもそも男らしさとは何か」という前提条件の共有を抜きにしたままで、「とにかくやめよう」と語られることが多いから。私はそのように捉えています。

せめて、「こういう男らしさは手離そう」「こういう男らしさは保持しよう」という場合分けをしないと、良い議論にならないだろう、とは思うのですが。

「男らしさから降りよう」と主張する時には、「男らしさとはこういうものである。だから、男らしさから降りた方が良い」というように、理由と共に意見を述べた方が良いのではないか。それが、良い議論のために必要なことではないでしょうか。


私と男らしさ

私は、競争心はたいして持っていません。それに、スポーツに集中して取り組んだこともこれまでにありませんし、筋肉をたくさんつけたいとも思わないです。人を撲ったのは、小学生の時が確か最後です。身体的な優位性を持ちたいという欲求は、あまり無いと思います。

最近はあまり観ていないですが、一時期はミュージカルが好きでした。
大学生の時に、音楽活動・教育活動をおこなうアメリカのNPO団体が日本での活動をする時に、会場でのボランティアに参加をしていました。その時には、ミュージカル作品をベースにしたパフォーマンスもおこなわれていました。
一度、その団体の大学生向けのワークショップに参加をした時には、男性が40人くらい、女性が180人くらい、という内訳となっていました。
かといって、女性の気持ちがよくわかる、というわけでもありません。

自分が持っている知識をひけらかして、自分の優位性を確認しようとする、という傾向はあります。「自分はこれを知っている。君はそれを知らない。だから、自分の方が上だ」ということをやりたがる、ということですね。
ただし、こういう「知識をひけらかす」というやり方はあまり良くないと今では感じています。ですので、最近は、「自分はこれを知っている」と言う時には、そのように言う必要性があるのかどうかに注意しながら話すようにしています。


様々な男らしさ

「男らしさから降りよう」という時に、「男らしさが何であるのかは既知である」という前提があるとしたら、それはおそらく身体的優位性だとか、暴力性なのだろう、と私は感じます。

「『身体的優位性および暴力性を持たなければいけない」という思い込みから自由になろう」という考え方には、私は同意をします。
もし、「男らしさから降りよう」という呼びかけがそういう意味であるならば、私は、それに同意できます。

しかし、私の場合、「人を撲ったのは、小学生の時が確か最後」ですので、「『身体的優位性および暴力性を持たなければいけない」という思い込みから自由になろう」と言われても、いまいち自分に響いてきません。

私の場合、「知識をひけらかす」という行為をすることが、「男らしさが良くない在り方で現れている」という状態であると言えます。私に対しての呼びかけをするとしたら、「『相手よりも多くのことを正確に知っていなければいけない』という思い込みから自由になろう」となるでしょうか。
前述の通り、相手が知らないことを自分が知っていて、そのことについて話す時には、必要なことだけを言うよう注意しながら話すようにしています。この点に関しては、まだ道半ば、だと考えています。



というわけで、私としては、
「『身体的優位性および暴力性を持たなければいけない」という思い込みから自由になろう」
という呼びかけは自分事には思えないです。

しかし、
「『相手よりも多くのことを正確に知っていなければいけない』という思い込みから自由になろう」
という呼びかけは自分事に感じられます。

「男らしさから降りよう」ということを伝えるだけでは、このようなニュアンスまで表現するのは難しいと思います。

なので、
「男性にもいろんな人がいます。だから男らしさもいろいろあります。まず『男らしさ』が何であるのかという前提から話を始めるべきではないですか」
という発想が基本だと思えるのです。


「男らしさとは優しさである」という発想

ここで引用をします。
前回の記事と同じく、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』からです。

男らしさの終焉 | 動く出版社 フィルムアート社

191ページより。

 私は、オールドスクールの男性が代表するすべてと別れようと言っている訳ではない。心理療法士のジェリー・ハイドに「男らしさとは何ですか?」と質問したら、彼はためらうことなく「優しさ」と答えた。奇妙な答えかもしれないが、穏やかな男性の優しさは非常に男性的なのである。穏やかな男性は、何かを押しつぶす力を肉体的にも感情的にも備えていても、それは使わずに愛と優しさを選ぶ強さがあるのだ。男性的な優しさは率直だ。これは「男の子は単純な生き物」というしつけの結果かもしれない。男性的な思いやりとは、肩を抱く静かで頼もしい腕である。心の優しい男は「岩」であり、その内向的な優れた資質は世に知らされていない。漫画の男らしさの芝居がかった派手さが、それを脇に追いやっているのだ。

「男らしさとは優しさである」

なかなか無い発想です。
しかし、考えてみる意義があると思います。

もし、「男らしさとは優しさである」という仮定をしたら、どういうことが言えるか。

それは、現代に男性にとっての問題は、(「男らしさの呪縛に囚われていること」ではなく)「本当の男らしさを充分に持てていないこと」である、ということではないでしょうか。

男性たちは、本当の男らしさを知ることができていなくて、追い求めているのは偽物の男らしさでしかない。
男性たちが本当に自分たちに向き合うためには、本当の男らしさをもっと持つべきである。

こう考えると、「男らしさは基本的には良いものである」と思えてきます。
そこには希望が感じられます。私はそれを信じたいです。



「男らしさとは優しさである」という前提を持って考えてみたいです。

「男らしさとは優しさである」と仮定をしたら、「男らしさから降りよう」という文は、「優しさから降りよう」という意味となってしまいます。

あるいは、『男らしさの終焉』からの表現で置き換えるなら、
「『何かを押しつぶす力を肉体的にも感情的にも備えていても、それは使わずに愛と優しさを選ぶ強さ』から降りよう」
「『肩を抱く静かで頼もしい腕に象徴されるような男性的な思いやり』から降りよう」
ということにもなってしまいます。

これは、良くないことでしょう。



「男らしさとは何か」

まず、ここから考え始めても良いのではないでしょうか。

私は、男らしさの在り方の中には、保持するべき要素もあるし、もっと求めるべき要素もあると信じています。
優しさは、そのうちの1つとなるかもしれません。




お読み下さり、ありがとうございました。